こんにちは。絵と文のイラストレーター、「さくらみ(さくらみゆき)」です。
こちらでは、イラスト制作風景や、日常の中のやさしい時間、
心躍るひとときを、イラストでお伝えしていきます。
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ブログを引っ越します♪

みなさま、こんにちは!

 

 

先日、友人に手紙を書いていて

初めて気づいたのですが、

 

 

なんと、私、今年、

イラストレーターになって20年目を

迎えておりました!!
 

 



 

 

 

ちなみにブログを始めてからは…

 

 

やはり、ちょうど10年目

になるんですね。
 

 



 

 

 

…ということで、このたび、

だいぶ突然ではありますが、

 

ブログのお引越しを決意しました。

 

 

 

(ついでに申し上げますと、

 イラストレーターとしての

 名前も変えることになりそうですが、

 その話はこちらで )

 

sakura-cafe.hatenablog.com

 

 

 

 

ちなみに

この jugemブログについてですが、

このまま、ここに残して参ります。

 

(ジュゲムさんには

 月額プラス料金もお支払いします。

 過去記事も読めますよ)

 

 

 

 

お引越し先はこちらです。

 

sakura-cafe.hatenablog.com

 

 

今後ともどうぞ、

よろしくお願い申し上げます。


 

保存保存

保存保存

今すぐ幸せになる方法


最近の自分を振り返ったら、
こんな絵になりました。


なので、今日はこの状況について
少しばかり考えてみたのですが…


結局、こういう場合、
自分をつかまえている
「大きなもの」って、

外側からやってきたもの
じゃなく、

みんな、自分の頭の中から
出たものなのよね。


自分や何かに
期待しすぎていたり、

「自分には何か足りない」
「もっともっと◯◯しなきゃ」と
欠けているところばっかり見て、
自分でその欠けている部分を
増幅していたり…

みんな、みんな、
自分が作ったもの。


しかも、
そんな状況に陥っている自分が
いやで、

気持ち悪いので、
なんとか逃れようとすると…

逃れようとすればするほど、

逆にそのことに、
かえって「とっつかまって」
しまうのだなぁと。






フフフ…つかまってるネ。



そう。
人間とは、

「いやだなー」と、
逃れようとすればするほど、

逆にその「いやなこと」を、
自分からギュッと
握りしめた状態
になる仕組み。


それが心のカラクリです。


でも…

安心していいよネ。


なんてったって、
その「いやなこと」は、


実際に、今、
目の前で起こっていることとは
全然別のこと。


自分の頭がでっちあげた

「ただの妄想」でしかないん
だから。


いやだ、いやだ、
と徹底抗戦していた相手
の手をギュッと
握りしめていたのは、

じつは自分だったのね。


しかも相手は、「ただの妄想」。


それに気づけば、
自分をつかまえていた何かは、
たちまち、
ぷしゅ〜っと消えてゆく。




妄想に「つかまる」より、


今、ここ、目の前にいる人、

今、ここ、目の前にある小さなこと、

に「つながる」。



大きなことなんて、しなくていい。


それは
小さければ小さいほどいい。


幸せはみんな、そこにある。



「妄想」なんて、自分自身じゃない。


自分自身とは、「今、ここ」に
生きている人のこと。




そのことに気づいたとき、
きっと人は、
幸せになっています。



よししあわせ

来週は、
「つかまる」より、
「つながる」でいこう音符


 
JUGEMテーマ:小さくて大切な幸せ。

 
今日も地球は回ってる



見えないけれど、
今日も地球は回っていて、

その地球は、少し、軸が
傾いている。

だから、冬が来て、風が
冷たくなったり、春が来て
氷が溶けたりする。


そして、見えないけれど、

今日も地球の重力のおかげで、
歩いたり、食べたり、
笑ったり、お風呂に入ったり、
眠ったりできる。


だいたい、
「地球の外は、無重力だ」
なんてそんなこと…

教えてもらわなかったら
ワタシ、自分では、
一生、思いもつかないなあ。



もっとも、

自分の目では見てないのに、
人から教わった話を、そのまま
信じて生きていること自体、

考えてみれば、
夢みたいなハナシだけれども…


(都内の街路樹には、まだ葉っぱがこんなに残ってる)

「色即是空 空即是色」


とにかく、

今日も私の見た世界は美しく、

12月らしい木枯らしが吹いて
いよいよ寒く、

いい夢見せてもらいました〜!!





My tokyo-tower-web.jpg





オマケ♪

ついに始まりました!
(過去記事から)
  ↓


このしめきりを
乗り越えたら、
この夢を見に行こうっと

ワクワク




何となく…だから光るもの
このブログを書き始めて
もうすぐ9年になるのですが、

 
初期に書いた記事のことは
もうすっかり忘れてしまって
います


 
9月11日4
最初は
何を書けばいいのか
よくわからなくて、

 
肩に力が入りすぎたり
 

 
妙〜に言い訳めいたことを
書いたり
 
時間ばっかり
かかっていましたっけ


 
こっ恥ずかしくって
今さら記事は
読めないけど
 
昔の写真や絵は時々見ると
すごく懐かしいです
 
のん気に個人事務所なんぞ
構えていた
当時の写真も発見

 
ノート2
 
懐かしいなあ
御茶ノ水のさくら事務所

窓からは、ニコライ堂が見えました


 
9月23日

 
プーさんもう一枚

 
9月23日

 
みんな、よく遊びに来てくれたっけ

 
電車で見かけた美しい人の絵
 
ペディキュア
サンダル

 
8月31日2
 
Photoshopの旧バージョン

 

 
思えばLINEとか
TwitterやFacebookって
まだほんとに
つい最近の流れですよね
9月3日2
 
近所のビルのお庭にいつも
立っていたオジサン

 
おすし3
おすし2
 
あ、お寿司の絵なんか
描いてる〜
 
パステル画2

 
パステル3
 
当時はパステル画を描いたあと、
スキムミルクでわざわざ
透明の皮膜を作って
保存していました
(今は描いたら描きっぱなし)

 
初期の名刺の絵
 
さくら洋服

 
今はこっち
 
さくらご挨拶

 
懐かしい写真も何枚か
出てきた
 
写真


 
ゆうちゃん
 
笑顔の先生ゆうちゃんは、
本当にキレイで色っぽいネ♪

 
写真


 
061126_1105~001.jpg

 
 
カヨチン

 

 
大地くん


 
061231_2326~001.jpg


 
…ブッ 
春ちゃんおもしろすぎ!
 
9年たって、いろいろ状況も
変化して、いつもみんなに会えている
わけじゃないけど…


友人には恵まれているなぁ

 
そうそう
 

 
カワイイ小鳥も
飼っていたんだっけ

 
ピーピーといい声で
毎朝 歌を歌ってくれました
 
可愛いわたしのぴーちゅう

 
あれから、まだ10年も
経っていない

 
振り返るには早すぎる

 
でも、そんな短い間にも、
いろんなことが起こっては
去っていったのね…


 
とびらひらく

いっぱい本も作ったし
 
いっぱいじゃないけど
レンアイもしたし
 

 
大きな地震もあったし


 
大病もしたし

 
大切な家族との
悲しい別れもあった

 


 
友人も、何人かは
この世を卒業していった

 

 
逆に家族が増えた友人は
私にも新しい出会いを
プレゼントしてくれて

 


 
いろんな旅もしたっけなあ

 
活字断ち2−8
 

 
その時々を
絵に描いたり
写真に撮ったり


 
そのどれもが
特に意識して「残そう」
としたわけじゃなく
 

 
何となく描いたり
何となく撮影したりした
ものだったけど


 
でも
その「何となく」が
今となっては
すごく光って見えるよ


 
夏の雲と私


 
期せずして起こった
無意識の渦の中で
時を重ねながら

 

 
人はだんだんと
自分の中心に
近づいていくんだと思う


 
悲しかったり
嬉しかったり
人生には
いろんなことがあるけれど


 
今の瞬間を捕まえて
しっかり味わっていけば


 
あとは自動操縦


 
きっとそれこそが
日常の本当にすごい力
なんじゃないだろうか


 
だから私は


 
これからも安心して
小さな毎日を
送っていくんだ


 
夕暮れ

 
(それにしても…このおじさんは、
今いずこに!?

 
きっとどこかで
現役で活躍してるよネ、フフフ)

 
紫陽花が教えてくれること

宝石みたいなあじさいが
笑っている

心にぽっと
明かりが灯る



…ところが

これが、
心が忙しかったりすると、
「あ、咲いてるな
 梅雨が来たんだな」
くらいにしか思えないものです



そこから連想が始まって

「梅雨か〜…
 ジメジメしてるけど、
 今日のお洗濯もの、乾くかな?

 傘、持ってこなかったけど、
 帰り、雨降ったらヤダな…

 ヤダなといえば、
 ずっと気になっているアレ、
 どうなってるんだろう?

 そういえば、
 相変わらず解決していない
 アノこと、
 これからどうしていったら
 いいんだろう?」


ホラホラ

心の暴走が始まってるヨ


しかも、本人は
それが暴走だとは
気づいてもいない様子


そんなときは…

「チョトマテ 

 チョトマテ

 オネーサン(オニーサン)」

だよ





重たくなりかけてた自分に
気付けてヨカッタね


気付けたら、あとは簡単

頭の中の会話を一旦全部
止めて、
今目の前にあることが、
何を語りかけているのかに
ただ、じいっと耳をすます


すると
本当は今、
何をすればいいのかわかって
体の中心に心が戻ってくる

目の前のことに
焦点がきちんと合った瞬間、
ウソみたいに
そこから幸せは始まります



…何故だかわかりますか?


心が重たいときや
悩んでいるときというのは

ありもしない未来のこと、
済んでしまった過去のこと、
そのどちらかしか
考えていないものだからです


まさに「心ここにあらず」

余計なパワーを使って
余計に芯がブレることを
しちゃってるんだよね


「心ここにあらず」なんて
そんな亡霊みたいな生き方は
もう卒業


今を見て、
今と共振しながら、
しっかり
今ここを生きていこう


フフフ

ヤッタルド〜






一隅を照らす生き方〜無財の七施


お釈迦さまは、

人間が賢くなるためには、
やわらかい羽根で鋼鉄の剣を
何度も何度もなぜて、
磨耗して無くなるまでよりも、
もっとたくさんの時間がかかる、

とおっしゃったそうです。


たとえば、日本のような
利便性が進んだ国では、
簡単には想像できないほど、
たくさんの負荷を地球にかけています。

たぶん「地球に優しい」
なんて言いながら、たくさん
「目に見えない借金」をしている。


借金とは、何か。

「楽の先取り」
なんだそうです。


豊かで便利なのが、当たり前に
なってしまった私たち…


でも自然は、公平で平等。
原因と結果を、ありのままに
反映します。

そこには甘いも厳しいもなく、
ただ厳然たるバランスだけがあるので、
私たちがしてきたことの結果は、
そのバランスから確実にフィードバック
されるのでしょう。


一方、人間は、
毎日どれほどの恩恵を地球から
受けているかには思い当たらず、

自分の小さな悩みで
いっぱいになって、
「足らない、足らない」
「もっとくれ、もっとくれ!」
と右往左往しています。


お釈迦さまが
呆れ果てるわけだなあ。



スピードの速い現代で、
毎日生きていくだけでも
精一杯な私たち。

「地球のために」
と大きく広く考えようと
したところで、
できることはたかが知れています。

やっぱり賢くなれないまま、
時間だけが過ぎてゆき、
やがては人間の欲によって、
この世は終末を
迎えてしまうのかしら。



…お釈迦さまのすごいのは、
そんな人間に、賢くなるヒントを
残してくださったところです。


それによると、人間には、
ごちゃごちゃ考えずに、
毎日の中でできる賢いことが、
7つあるんだって。


それは…


1◯眼施(深く物事を見つめ、
     見て見ぬふりや、無視をしない)

2◯和顔施(笑顔でニッコリ)

3◯愛語施(温かい言葉を語る)

4◯身施(体でできる奉仕を怠らない)

5◯心施(思いやりを持って人に接する)

6◯しょう座施(席や立場を譲る)

7◯房舎施(家や場に招いて、心から
      おもてなしをする)



これは「無財の七施」と言って、
お金が無くても、力が無くても、
今いるその場で、誰もができる、
お釈迦さまおすすめのお布施
だそうです。


「無財」でも、
財産持ちになれるのが
人間なんですね。



結局、人間は、
どうあがいたところで
自分一代では、大したことは
できないのだと思います。

だから、次世代に向けて
70億人の地球人が一斉に
コツコツと積んでいく。


行き過ぎたら反省し、
戻れるところは戻り、
工夫できるところは工夫し、
いろいろやってみた中で、
受けたフィードバックを、
後世に伝えていく。

長い長い歴史の中で
大きな知恵を育んでいく。




やがては消えゆく地球という星に、

今はひととき、場を借りて、

自然のバランスに学び、

いつかは自らも
自然淘汰されることを
潔く受け入れて、

生きている限りは、
自分の命で一隅を照らしながら、
一生懸命、人の間で生きる。

そのときに、「無財の七施」が
生きてきます。


なぜか意識もないままに、
気づいたら、
この「現代」という船に
乗り合わせていた私たち。


「現代」はいろんなことを、
可能にしてくれました。


その恩恵に気づいて、
とにかく「むさぼらないこと」。


むさぼろうとしている自分に
気づいたら恥じ入ること。

そして、合わせて
「無財の七施」で、
ほんのりと、自分の周りを
あたためて生きる。


結局、賢くなるには、
「ものすごく基本的なことを
 しっかりやりなさい」
ということなのですね。


はい、
がんばりま〜すp(^^)q



JUGEMテーマ:人生訓


ふくしまの旅(4)富岡町の風景
さて、
ここまで楽しい旅の情報を
お届けしてまいりましたが、
最後にどうしても、
触れておかなければなりません、
福島県富岡町のこと。
富岡町は、地図で言う太平洋側。
浜通りの福島第一原発、第二原発に
はさまれた町です。
 
今から8年前、私はこの町に
友人ができたことで
富岡町を訪れることが多くなり、
福島が大好きになりました。
 
読書普及協会のイベントも
頻繁に行われ、
なんだかんだと理由をつけては、
年に3回くらい伺っては、
お世話になっておりましたっけ…。
 
2009年には、交通の危険箇所を
知らせるイラストマップ作成のため、
仕事でも訪れています。
 
そのときの写真がこのブログに
残っていたので、記事と一緒に
下記↓に引っ張ってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2009年10月23日 14時6分
タイトル「富岡に来ちゃった♪」
091023_1240~01.jpg
スーパーひたちで、
ずっと太平洋ぞいを北に走ってきました。
富岡、良い所です。
これから大ちゃんとお仕事ですo(^-^)o
 
タイトル「富岡の夜は更けゆく」
091023_1801~01.jpg
まったりと盛上がり、
ご覧のようにお皿は空っぽ。食べ過ぎかな?
泊まるつもりはなかったのに
とうとう、上野行きの終電は
行ってしまった…(笑)
 
タイトル「楽しいなぁ美味しいな」
091023_1802~01.jpg
たまちゃんの話が異様に面白い☆
 
タイトル「ジャパンが来た!」
091023_1840~01.jpg
東京から出張中のジャパンと
富岡でまさかの飲み会合流(^O^)
酔いどめのキヨーレオピンももらって
久しぶりにお酒も味わいました♪
 
タイトル「富岡の夜ありがとo(^-^)o」
091023_1802~02.jpg
大ちゃん(変顔ばっかり!?)
いろいろありがとうね!
 
ーーーーーー翌朝ーーーーーーーーーーー
2009年10月24日(土)8時49分
タイトル「スーパーひたち、
何とか間に合った!」
091024_0845~01.jpg
これに乗れなかったら、
つぎは2時間後まで来ないの!?
ということに気づき、
ノーメイクのまま宿泊所から
つっぱしってきました☆
ふ〜、危なかった…
(でも朝食はしっかり食べてきたよ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、2009年の秋の写真でした。
懐かしい…
本当に懐かしい写真です。
 
また、
2010年の4月11日(震災から一年前)には、
大勢の仲間達と
お花見のために訪れています。
そのときは、イラスト入りで
覚え書きをチャチャッと書きました。
  →コチラ
 
もちろん、あのときは
一年後にあんな大きな地震が起こり、
あんな大きな原発事故が起こるとは、
予想さえしていなかった。
 
以下は富岡の、東日本大震災から3年後、
今現在の風景です。
富岡_3.JPG
富岡駅
富岡_10.JPG
富岡駅前
富岡_4.JPG
駅前の建物は
津波の被害を受けた
そのまま時間が止まっている
富岡_15.JPG
おいしいラーメンを
ごちそうになったお店も…
富岡_11.JPG
富岡_12.JPG
富岡_13.JPG
あの奥のお座敷でラーメン食べたのに、
今は見るかげもなく…
富岡_16.JPG
先ほどの写真で
みんなで楽しく飲んでいたお店
小料理「まどか」。
 
ここから急坂になるので、
富岡町の場合、津波の被害は
駅前周辺が一番ひどいです。
 
でも、津波は来なくても…原発の
水素爆発がこの町の近くでは起きました。
友人たちは、文字通り、朝出勤した
「着のみ着のまま」、何も持たずに
避難生活に入りました。
 
お世話になった
きくち書店さんの前の商店街。
富岡.JPG
町には住人がいないため、
とにかく、とにかく、雑草が
生い茂っている状態。
 
よくイベント開催で
お世話になった「学びの森」
富岡_24.JPG
富岡_25.JPG
揺れの大きさが天井に残ったまま
 
そして、空き地に
置かれている黒い袋は「汚染廃棄物」
富岡_5.JPG
大量にあります。
富岡_6.JPG
富岡_22.JPG
海沿いに中間貯蔵される
汚染廃棄物。
 
学校の校庭には雑草が生い茂り
富岡_2.JPG
野生のきじが、逃げもせず、
ゆうゆうと立っていました。
富岡_1.JPG
もう一度駅前の風景を…
富岡_9.JPG
富岡_7.JPG
富岡に入ってからは、
どうしても
気が重くなりがちでした。
 
とにかく、震災から3年のときが
たったとは思えない。人がいない。
当たり前なのです、ついこの間まで
「帰宅困難区域」だったのですから。
 
今は「住居制限区域」と言って、
許可がなくても、入れる地域も
出てきたそうです。
ただし、住むことはできず、
許可が無ければ泊まることもできない。
 
やっと車一台が通れるような
細い道路を隔てて、
「帰宅困難地域」と「住居制限区域」
に別れている場所もあり、
信じられないことですが、そこは
バリケードで隔てられていました。
まるで映画みたいに…。
 
そのバリケード一本を隔てて、
補償のお金も変わってくる。
お金の問題は、さまざまな問題に
波及します。
 
「は〜…」
考えれば考えるほど、
ため息が増えてしまう。
 
そんな私に、たまちゃんの娘の
7歳の野乃子ちゃんが、
ずっと元気に語りかけてくれました。
 
子どもの存在ってすごい。
 
人は、
子どもに元気をもらえるから
生きていけるんだな。
 
大人がどんなに難しい顔を
していても、
子ども達の頭の中にはいつだって、
楽しいことがいっぱい。
その無邪気さ、輝きに
大人はどれほど救われて
いることか…
 
それはきっと縄文人の昔から、
ずっと変わらないことなんでしょうね。
 
今回の福島の旅の中では、
生産者の方たちの想い、
友人たちの想い、
お金のからむ問題、生き甲斐の問題、
言葉にできないこと、
裏で語られてしまうこと…
帰りたいのに、帰れなくなった
ふるさと。
いろんな想いを肌で感じました。
 
「難しいね…」
そう言いたくなってしまう
瞬間もあった。
 
でも、人間は、
少しずつでも進歩を重ねていく
生き物です。
 
子どもたちにもらっている、
あのパワー、エネルギーに
報いるためにも、
大人は目をそらさずに
しっかり現実を見て、
誰かと会話を重ねて、前進のために
自分ができることをする。
 
小さくてもいいから、
自分にできることを積み重ねて
生きていく。
 
その決意を私もあらためて、
強くしました。
 
福島が、
ますます大好きになった旅でした。
ありがとう、福島!
ありがとうございました、福島の皆さん。
 
最後には、大ちゃんにも
久しぶりに会うことができ、
ありがたかったです。
たまちゃん、本当にありがとう!
→藤田大ちゃんのブログはコチラ
→たまちゃんのホームページはコチラ
 
「福島市の旅」はこの記事とは別に、
イラストルポという形にしてまたお目にかけますね。
「サザエさん的」温もりを…♪

今月も、
寂聴さんの「寂庵だより」が
届きました。

今年、数えで御年93歳になられる
寂聴さん。

私がこの新聞(全8ページ)
をとり始めたのがかれこれ
5年くらい前、
寂聴さんが87歳くらいの
頃からなのですが、
そのときから寂聴さんの口ぐせは、

「もういつ死んでもいい」

「今月も、二日徹夜して、
 なんとか本を書き上げた」

のお二つで、今も全く変わっていません


内容は、
ご自身の日々の記録、
来庵された方との交友録、
ズバッと解決のお悩み相談コーナー、
被災された方とのやり取りや、
最近一緒に暮らしている、
助手の若い女性二人(美人)との、
おもしろ可笑しいやり取りなども
書かれていて、
読むといつもほっこりします。

月刊250円。
年間購読料は2500円(送料込み)。
赤字、持ち出しで発行しておられる
そうなのに、
年末には必ずカレンダーがついてきて、
「大判振舞いしすぎでは?」
と心配になるほど。


そんな寂聴さんのカレンダーの
一月の言葉は…

「一所懸命に生きることが
 人間の普通の姿です。
 その中で悲しみに遭ったり、
 思いがけない裏切りを受けたり、
 様々な苦しみを体験します。
 そんな時、お釈迦さまを
 思い出せばいいのです」

意外なことに、この言葉は、
毎日読んでもちっとも飽きず、
読むたびに「なるほどなあ…」と
思いをめぐらし、
遠い目になってしまうから
不思議です。

寂聴さんにはずっと
お元気でいらしてほしい
そしてこれからも「寂庵だより」を
書き続けていただきたいです。


 「寂庵だより」購読の
  お申し込みは→こちらから


さて、私には、
他にも定期購読しているものが
あって、それは東大の月刊小冊子で
「UP」という、年間購読料が
1000円(送料込み)のものです。
         →こちら

これがまた、
東大だけあって!?
小難しい話だらけで、
とても地味です


それでも、
定期購読しているのにはわけがあって、
山口晃さんのこの↓小さなマンガ
「すずしろ日記」が楽しみなんですね。

あまりにも細かい字なので、
いつも、読むのにはなかなか
苦労します。

でも、苦労して読んでも、
直接何かの役に立つようなことは
何も書いてありません。

書いてあるのは、
ひとりの絵師が、
奥さんと過ごす、平和な
日常のあれやこれや…

でも、そこに、
何とも言えないおかしみが


本当は5年くらい
待っていれば、

左のような立派な本にまとまって、
判型もビッグになり、
格段に読みやすいものが
購入できるのです。

え? だったら、本になってから
読めばいいじゃないかって?

…そうなんですけどね

でも、
忘れた頃にやってくる
定期購読誌って、
人生の「小さな幸せ」ではないかと
思うんですよ。


だいたい、私はこの手の
役に立つのか、立たないのか、
今ひとつわからない…
というものがとても好きです。


好きが嵩じて、私も…
自分新聞を発行するようになりました。
発行は3年に、たった1度ほど
ですけど


ついでに、
昔作った読書普及協会の
懐かしいチラシが出てきたので
今日はこちらも
いかがです!?
なんてキャッチーなチラシ!?
我ながら自画自賛、惚れ惚れです

この柔らかい「元気さ」
大事にしていきたいなあ!


手作りのもの、柔らかいもの、
元気や温もりや、
人生の味わいがそのまま伝わるもの、


時代がどんなにデジタルになっても、
「サザエさん的」な温もり、
小さくとも大切に、
伝え続けてゆきたいです。


ちなみに、緑色のチラシの主人公は、
篠崎の情熱書店『読書のすすめ』の
熱血店長、清水克衛さんです。

皆さん、『読書のすすめ』に
ぜひ、足を運んでみてください
人生、変わっちゃうかもヨ!?


クリックで『読書のすすめ』
ホームページへ↓



追伸)
大好きだった料理家、
小林カツ代さんのご逝去に際し、
心よりご冥福お祈り申し上げます。
永遠のレシピ、
ありがとうございました。



家族の小さなストーリー

今日は、父の命日で、
お墓まいりへ


思えば、父が亡くなって以来、
11月24日というのは、ずっと
わが家にとって特別な日でした。

特に、母サチボンにとっては…。


そんなサチボンも昨年、突然亡くなり、
その日から数えて
ちょうど四十九日目に、
父の命日がぴったり当たることに
気づいたときは、
本当にビックリしたものです。

「ああ、母は、亡くなる日を
 自ら選んで逝ったのだ…」
と思わずにはいられない出来事でした。




実は、昨年のこの時期のことは、
ほとんど覚えていません。


思えば、一番つらい時期だったかも
しれません。
記憶力も、集中力も、どこかへ
ふっ飛んでしまい、
唯一よく覚えているのが、
世の中にある全てのことが
「遠くにある」ように感じた、
という肌感覚です。


言うなれば、まるで、
自分の周囲1メートルくらいに、
ぐるりと透明な穴が
空いてしまったかのようで、
そこに澄んだ悲しみと、切なさが
ひたひたとたまっていました。

ムネガイタイヨ。

アイタイヨ。


でも、その痛み、
あまり人さまに見せたくない、
いや、見せてはいけない…と思う
もう一人の自分がいるわけです。

人間は、
誰もがこんな悲しみを乗り越えて
それでも生きているんだと知り、
「自分も早く立ち直らなきゃ。
 母もきっとそう望んでいる」
そう思って、
じっとこらえていた時期でした。


そんなとき…


このブログをご覧になっている方で、
遠方からはるばる、
声をかけてくださった方がいました。

その方は、ご自身もかつて
ご家族を突然亡くされた経験が
おありで、

「今は思い切りメソメソしていて
 大丈夫ですよ。
 半年間くらいは、
 思い切りメソメソしちゃって
 ください」

と、わざわざメールを
くださったのです。

…え? いいの?
まだメソメソしていてもいいの?

そのお言葉、
どれほど救われた気持ちになったか、
わかりません。

たかこさま、あの節は
本当にありがとうございました。


あれから一年がたち、
おかげさまで今年は、
ぎゅうっと追い詰まるような忙しさに
メソメソする余裕もなく…

いや、ここは正直に言いますと、
メソメソは15〜20%ラインで
常にキープされているのですが、
その悲しみは、私にいろいろなことを
教えてくれます。


おっと、ちょっと話が脱線しました

とにかく、今日は父の命日
だったのでした。


さ、お墓参りの帰りは、
ウォーキングで帰宅ですよ!


すると、途中に…

後楽園ラクーアが

お墓から、遊園地へ
いきなり異次元へ突入です。

「ゴォーッ」とすべってくる
ジェットコースター。
「キャーッ!!」と上がる悲鳴


下にはメリーゴーランドや
美味しそうな食堂街があって、
ムーディなクリスマスソング
が流れており、
たくさんの親子連れや、若者たちで
ワイワイにぎわっていました

懐かしいナ…

昔よく、兄と一緒に、
父に連れてきてもらったのです。


ラクーアを通り抜け、
以前から何となく気になっていた
お店を見つけ、お昼ご飯に
することにしました。

うふ 広東麺です。


じつは父に後楽園に
連れてきてもらった時も、
この辺りの中華料理屋さんに、
ラーメンを食べに寄った
記憶があるのです。

そのとき私は、初めて、
「大人用のラーメン」を
一人で平らげることができました。

それまで、食が細くて、
兄や両親が頼んだお皿から、
小皿で取り分けてもらった分を、
やっと食べているような感じだった私。
(今じゃ考えられないけど…)

なので、この日の
「一人で大人のラーメンを食べた!」
という達成感は、相当なものでした。

前の席に座った父が、
目を丸くして喜んでくれたっけ…

うん、この味、この美味しさ、
すごく懐かしい感じがする。
やっぱりここだよ!
このお店に違いない。

…そこまで思い出したところで
「あっ!」と思いました。

そういえば、今日は父の命日。
ぐるーり、思考が振り出しに戻り、

後楽園の中を歩いたのも、
このお店に何となく寄ったのも、
父が引っ張ってくれたんじゃない?
          と…。

すると前の席に父が座って、
ニコニコ笑いかけてくれている
気がして、
じわあっと、あたたかいものが
こみあげてきました。


お店に出る時、レジのおじいちゃまに
「こちらは創業何年になられますか?」
と伺ったところ、

「…創業、ですか?
 うー、もう六十年以上は
 やってますねー(ダミ声)」
とのこと。

うん、やっぱり、このお店だ!
ここに違いない♪


広東麺、めちゃくちゃ
美味しかったデス。


ありがとう。







内的世界にダイビング!
今日は、ダイビングのお話です。
(ご指摘をいただき、ちょっと短くしてみました。4/19

ダイビングと言っても、海じゃありません。
飛び込む先は、自分の「心の中」ですよ。


わたし1web.jpg








人間は、誰もが
自分を「表現」しながら生きています。


この「表現」には、大きく分けて
二つの種類があります。


ひとつは、
「表出」と言って、
心の中にあることを
あまり考えたりせずに、
そのまま表していく表現です。


もうひとつは、
自分の内面と対話しながら
長い時間かけて探っておこなう表現です。



たとえば、
誰かと電話したり、
向き合って会話をしたり、
twitterでつぶやいてみたり…というのは、
「表出」ですね。

あまりにも嬉しい出来事があって、
つい踊りを踊っちゃったという場合は、
その踊りも「表出」です。



私にとってはこのブログも
「表出」に近い表現です。
人によっては、ブログはもちろん、
doxiやmixi、Facebookでの文章化
などがそれにあたる方もいるでしょう。 

つまり、
何のしがらみも報酬もないけれども、
ただこの「何だかよくわからないけど好き」
というような感覚をきっかけにして、
自由に「自分の今」を描きつづってみよう、
それがもし、若干でも、誰かの役に立ったり、
誰かの元気になったりしたら、嬉しいな…   
というような。


この場合は、
「こういう気持ちを
 なんとなく形にしてじっくり見てみたい」
という想いと、
それを深めていこうとする過程が、
ほぼ同時に行われます。


自分が自分であることに、
瞬間的に一致できている幸せが
そこにあります。


こうした表現をするとき、
人はあまり意識せずに自分をさらけだしていくので、
話をする相手や、
その日に心がときめいた素材などによって、
偶発的な言葉で、いろとりどりの事象を語って
いくことになります。


そしてその分、
ナマに近い自分の「本質」も、
わりとそのまんま出てしまいます。
良くも悪くも、ネ。


ちなみに、私は、
小説家やマンガ家さんの作品を見ていて、
その人が丁寧に意識してなした「表現」よりも、
ものすごく雑だけどイキオイのある、
「表出的表現」の方が
面白い…と思うことがよくあります。



これはどっちが勝っているか…というハナシとは
また全然別の話ですヨ。
どちらにも、それぞれの良さがあるので。



ただ、「表出」的な表現には、
その人のそのときの「今」が如実に
描写されることによって、
とても刹那的で荒くはあるのだけど、
誰にでも共感しやすい、
日々の人生のおかしみと、
それを瞬時に描きつづった感じが
現れ出てきます。


そこがすごく面白くて、味わい深いと
感じるわけです。



思えば…
だから私は、ブログを続けているような所が
あるかもしれません。


下手でも何でもいいから、
とにかく書き続けていれば、
どこかで誰かが、
意外にもちょっと笑ってくださって、
元気になってくれることがあるかも
しれませんものネ。
私3web.jpg





さて一方で、
時間をかけて、丁寧に、
意識して深めていく「表現」
というものがあります。

カレンダーweb.jpg


これは「仕事」と呼ばれるものであったり、
「作品」と呼ばれるものであったり、
一人の人間の「人生、生き様」そのものにも
あてはまるでしょう。


この場合は、行程がどうしても長くて
複雑になるので、
たとえそれが最初は「好き」で始めたことで
あっても、途中から、
その「好き」という気持ちは、いったん、
見えなくなるまで遠のいてゆきます。



私の場合で言えば、
最初は確かに好きで始めた作品だったのに、
どこか一部分が完成してしまって、
さあ、いざ次の段階に進もう!となった途端、
ぽかっと心が真っ白になって、
「あれ? あんなに好きだと思って
 作り始めたものだったのに、
 昨日までの、あの素晴らしい集中力はどこに
 消えてしまったのかしら?
 自分って本当に、これが好きだったの?」
なんて思って愕然とするわけです。


複雑な行程に取り組んでいくと、
人はもはや、それが好きだったのか
嫌いだったのか、
自分でもわからなくなってしまうんですね。


これはつい最近まで、
私だけかと思っていたのですが、
ある本によると、ほとんどのアーティストが
同じ過程を経過していくとのことでした。
作品作りとは、まさにその繰り返しなのだと…。


きっと、皆さんも少なからず、そういう経験を
されたことがおありでしょう。
何かのプロになろうとする人は、大体、
同じ道を通っていくと思われます。


こうしてみると、
人間の「好き」なんていう感覚は、
けっこう簡単に遠くへ飛び去って、
見えなくなってしまうもののようです。



ではそこに幸せはないの?と言えば
そんなことはなくて、
そこにはまた別の、深い幸せがあるのですね。



たとえば、
外からやってきた仕事に没頭するときも、
自分の内的な動機から発した作品に没頭するときも、
入り口は同じで、
どっちにしても、まずは一度、
海の中に自ら飛び込んで、
「徹底して無我になる」という
「儀式」のような瞬間が必要になります。


内的世界にじいっと集中していく瞬間…



こういう瞬間というのは、
おそらく、どなたもが
経験したことがあると思いますが、
飛び込むときはちょっと勇気がいりますよね。


でも、最初は苦くても、
最後は必ずおいしくなっているという、
不思議な味わいを持っています。


最初のそこの部分さえ通過できれば、
あとは楽です。


自分の内側の声(フェルトセンス)を聞きながら
創造の階段を降りていくことによって、
人間は誰でも簡単に「今ここ」に
アクセスしていけます。


ちなみに、フェルトセンスとは、
「言葉にはまだしにくいんだけれども、
 お腹や胸のへんあたりに留まっているような、
 身体で感じている気持ちのこと」です。




このフェルトセンスを頼りに
「あーでもない、こーでもない」と
自分と内的な対話(内省)をしながら
より良い仕事や生き方を、探ってゆく。



その試行錯誤から、
自分ならではの「表現」が生まれてきます。

そして「表現」が生まれれば、
そこに「他者との関わり」も生まれてきます。


そこまで行って、初めて
人はもう一回、スタートに戻ります。

「今回やってみた表現の中で、やりがいを感じたり、
 好きだなって思った所はどこだった? 
 それとももっと深めたいのは
 別のことだった?」

どこかへ行ってしまったと思っていた
『好き』へのきっかけが、
形となって顕現して、
自分にフィードバックしてくれる。


自分の中にあった、
自分でも気付かなかった「何か」を
形にして取り出し、じっくりと
眺めてみる…


それが表現というものです。


こうして人は、もう一度、
自分自身に出会うわけです。
ほんの少し何かが深まった形で…。





「自分との、長い対話を経て、
 より深く自己一致を行っていく」

実はこれは、自分の本質を深める、
「最短コース」なのかもしれませんね。




それにしても人間は、
なぜ一体、こんなに遠回りをして、
まどろっこしい事をするんでしょう?

ラクで楽しい「表出」的な表現だけじゃ、
なぜ、ダメなんでしょうか?


もちろん、
「表出」の表現だけでも十分、
社会的認知や報酬を得られる人はいます。
でもたぶん、そんな人であっても、
…いや、そんな人であればあるほど、
どうしてももっと複雑なものに
取り組みたくなるのが人間というもの
なんじゃないでしょうか。


このことをわかりやすく考えるため、
「お笑い芸人さん」の例で
言いかえてみましょう。

たとえば、テレビのバラエティー番組で
ある芸人さんが、ひな壇にゲストとして座って、
番組の賑やかし的存在をやっていたとします。

そうすると、
その芸人さんの「本質」が少なからず、
「表出」されてきて、
そこに共感して、好きになる人も
出てくるでしょう。

好きな人が増えてくれば、
視聴率も上がります。


でも、いつまたってもそれだけだと、
だんだん芸人さんは、
自分がつらくなってきます。

必ず本分の「漫才」だったり、
自分の内的なものに合致した部分で
人生を深めていかないと、
自分が自分に、納得できなくなってしまう時が
来るのです。


そこにフタをして誤摩化していると、
その内的不一致感は、オーラを曇らせ、
心やからだの具合を悪くさせるだけでなく、
最悪の場合はテレビを通して、
そのまま、見ている人にも伝わってしまいます。

その人を見るたび、
なんだかぼやっとした気持ちになって、
がっかりして、
ついには世界までがまるごとマイナスの共感へと
引っ張られてしまう。
これはとても不幸なことです。


もっとも、お笑い芸人さんというのは
たいていは人一倍、
敏感な感性を持っている方たちなので
「おかしいな」と思い始めた辺りで
上手に転身をはかったり、
何かを見つけて表現の幅を広げていきます。

監督になったり、
俳優になったり、
司会者になったり、
絵描きさんになったりね。


お笑い芸人に、
どうしてあんなに見事に転身できる人が多いのか
と言えば、それだけ「お笑い」という表現は
人間の深いところに関わっているからだと
思います。


一見、バカに見えるように動けるというのは、
それだけすごいということなんでしょうね。


いずれにしても人間は、
最終的にはどうしても自分の井戸を
掘らずにはいられないのです。

それは職業的にプロになるというよりは、
「自分のプロになる」ということに
直結しているんじゃないかと思います。








まさに今
伸びていこうとしている葉っぱの先の、
先のほうまで、
丁寧に「生きる力」を届かせたい…


植物と同じように、人間も
そんな生き物なのでしょう。

浅い所でクルクルと回遊するのじゃなく、
できる限り、深い所まで行きたい、
全身全霊の自分になりたいのです。


深い内省によってなされた「表現」は
ただちに「表出」(本質)のほうにも影響を及ぼして、
内的な自分と一致している感覚が
一段と進んでいきます。
仕事も人生も、こうして
一緒に深まっていくのです。


また人間は、
誰かが、その人自身である「表現」を
しているところを見るのが、
とても好きです。


なぜならそれは、
見た瞬間に元気が出て、
ひょっとしたら、自分も
がんばれるかもしれない!
と思わせてくれる、
「ものすごい力」を持っているからです。


たとえば、
ダルビッシュも、イチローも、
大リーグの選手ですが、
それぞれがそれぞれの強さ、弱さを自覚し、
丁寧に吟味したうえで
良さを発揮しているから
輝いて見えるわけです。


彼らは、自分の長所はもちろん、
欠点を知り抜くことで、
それを武器にして、自分ならではの
人生、仕事を表現しています。


その姿を見れば、
最初から天才なんて人はこの世にはいなくて、
自分を「情けない」「悔しい」
「もっと強くなりたいのに…」
と思った部分をきっかけにして
内省を深めていったのかがよくわかります。



誰かが、内的に自己一致して表現して、
それを自分の手の中だけにとどめずに
世界に向かって発信していくということは、
だから大切なんですね。

それはきっと、世界のどこかにいる誰かにも
明るい光をもたらすから。


社会という場では、どうしても、
経済的なものや、時間的なもの、
立場やしがらみなどが優先されるので、
自分では「もっと深めたい」と
思っていることがあっても、
さまざまな諸事情により
その対話が途中で「遮断」されてしまうことも
多いと思います。


…って書いてしまうと、
いかにも「社会のせい」と思われるかもしれませんが、
実際には、そうではなくて、
個人が自ら望んでそうなっている場合のほうが
圧倒的に多いのですね。



日本は、今、
「飢え」などからはとうに解き放たれた
恵まれた国になっているので、
本当はみんなもっと自由に、
「自己一致」に向かっていって
いいのではないでしょうか。


「とても簡単にはできそうにない。
 でもこのことだけは、時間かかっても
 探求したい。
 全身全霊で打ち込みたい」
と思うことをひとつでもいいから見つけて、
それを通して、世界や人と
つながってみようとすること。

いつも受け身だけで時間を過ごすんじゃなく、
テレビやネットなど
怠惰を誘うあらゆるユーワクを乗り越え、
内省の時間を増やして得たものを
世界に向かって表現していくこと。



それさえ大事にしていれば、
「経済」も「時間的制約」も
「しがらみ」さえも、逆に
人生や世界とのつながりを深めてくれるきっかけに
十分なりうると思うのです。



JUGEMテーマ:創作活動

こちらの本でも、深い内的ダイビングが
可能ですヨ♪
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