こんにちは。絵と文のイラストレーター、「さくらみ(さくらみゆき)」です。
こちらでは、イラスト制作風景や、日常の中のやさしい時間、
心躍るひとときを、イラストでお伝えしていきます。
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内的世界にダイビング!
今日は、ダイビングのお話です。
(ご指摘をいただき、ちょっと短くしてみました。4/19

ダイビングと言っても、海じゃありません。
飛び込む先は、自分の「心の中」ですよ。


わたし1web.jpg








人間は、誰もが
自分を「表現」しながら生きています。


この「表現」には、大きく分けて
二つの種類があります。


ひとつは、
「表出」と言って、
心の中にあることを
あまり考えたりせずに、
そのまま表していく表現です。


もうひとつは、
自分の内面と対話しながら
長い時間かけて探っておこなう表現です。



たとえば、
誰かと電話したり、
向き合って会話をしたり、
twitterでつぶやいてみたり…というのは、
「表出」ですね。

あまりにも嬉しい出来事があって、
つい踊りを踊っちゃったという場合は、
その踊りも「表出」です。



私にとってはこのブログも
「表出」に近い表現です。
人によっては、ブログはもちろん、
doxiやmixi、Facebookでの文章化
などがそれにあたる方もいるでしょう。 

つまり、
何のしがらみも報酬もないけれども、
ただこの「何だかよくわからないけど好き」
というような感覚をきっかけにして、
自由に「自分の今」を描きつづってみよう、
それがもし、若干でも、誰かの役に立ったり、
誰かの元気になったりしたら、嬉しいな…   
というような。


この場合は、
「こういう気持ちを
 なんとなく形にしてじっくり見てみたい」
という想いと、
それを深めていこうとする過程が、
ほぼ同時に行われます。


自分が自分であることに、
瞬間的に一致できている幸せが
そこにあります。


こうした表現をするとき、
人はあまり意識せずに自分をさらけだしていくので、
話をする相手や、
その日に心がときめいた素材などによって、
偶発的な言葉で、いろとりどりの事象を語って
いくことになります。


そしてその分、
ナマに近い自分の「本質」も、
わりとそのまんま出てしまいます。
良くも悪くも、ネ。


ちなみに、私は、
小説家やマンガ家さんの作品を見ていて、
その人が丁寧に意識してなした「表現」よりも、
ものすごく雑だけどイキオイのある、
「表出的表現」の方が
面白い…と思うことがよくあります。



これはどっちが勝っているか…というハナシとは
また全然別の話ですヨ。
どちらにも、それぞれの良さがあるので。



ただ、「表出」的な表現には、
その人のそのときの「今」が如実に
描写されることによって、
とても刹那的で荒くはあるのだけど、
誰にでも共感しやすい、
日々の人生のおかしみと、
それを瞬時に描きつづった感じが
現れ出てきます。


そこがすごく面白くて、味わい深いと
感じるわけです。



思えば…
だから私は、ブログを続けているような所が
あるかもしれません。


下手でも何でもいいから、
とにかく書き続けていれば、
どこかで誰かが、
意外にもちょっと笑ってくださって、
元気になってくれることがあるかも
しれませんものネ。
私3web.jpg





さて一方で、
時間をかけて、丁寧に、
意識して深めていく「表現」
というものがあります。

カレンダーweb.jpg


これは「仕事」と呼ばれるものであったり、
「作品」と呼ばれるものであったり、
一人の人間の「人生、生き様」そのものにも
あてはまるでしょう。


この場合は、行程がどうしても長くて
複雑になるので、
たとえそれが最初は「好き」で始めたことで
あっても、途中から、
その「好き」という気持ちは、いったん、
見えなくなるまで遠のいてゆきます。



私の場合で言えば、
最初は確かに好きで始めた作品だったのに、
どこか一部分が完成してしまって、
さあ、いざ次の段階に進もう!となった途端、
ぽかっと心が真っ白になって、
「あれ? あんなに好きだと思って
 作り始めたものだったのに、
 昨日までの、あの素晴らしい集中力はどこに
 消えてしまったのかしら?
 自分って本当に、これが好きだったの?」
なんて思って愕然とするわけです。


複雑な行程に取り組んでいくと、
人はもはや、それが好きだったのか
嫌いだったのか、
自分でもわからなくなってしまうんですね。


これはつい最近まで、
私だけかと思っていたのですが、
ある本によると、ほとんどのアーティストが
同じ過程を経過していくとのことでした。
作品作りとは、まさにその繰り返しなのだと…。


きっと、皆さんも少なからず、そういう経験を
されたことがおありでしょう。
何かのプロになろうとする人は、大体、
同じ道を通っていくと思われます。


こうしてみると、
人間の「好き」なんていう感覚は、
けっこう簡単に遠くへ飛び去って、
見えなくなってしまうもののようです。



ではそこに幸せはないの?と言えば
そんなことはなくて、
そこにはまた別の、深い幸せがあるのですね。



たとえば、
外からやってきた仕事に没頭するときも、
自分の内的な動機から発した作品に没頭するときも、
入り口は同じで、
どっちにしても、まずは一度、
海の中に自ら飛び込んで、
「徹底して無我になる」という
「儀式」のような瞬間が必要になります。


内的世界にじいっと集中していく瞬間…



こういう瞬間というのは、
おそらく、どなたもが
経験したことがあると思いますが、
飛び込むときはちょっと勇気がいりますよね。


でも、最初は苦くても、
最後は必ずおいしくなっているという、
不思議な味わいを持っています。


最初のそこの部分さえ通過できれば、
あとは楽です。


自分の内側の声(フェルトセンス)を聞きながら
創造の階段を降りていくことによって、
人間は誰でも簡単に「今ここ」に
アクセスしていけます。


ちなみに、フェルトセンスとは、
「言葉にはまだしにくいんだけれども、
 お腹や胸のへんあたりに留まっているような、
 身体で感じている気持ちのこと」です。




このフェルトセンスを頼りに
「あーでもない、こーでもない」と
自分と内的な対話(内省)をしながら
より良い仕事や生き方を、探ってゆく。



その試行錯誤から、
自分ならではの「表現」が生まれてきます。

そして「表現」が生まれれば、
そこに「他者との関わり」も生まれてきます。


そこまで行って、初めて
人はもう一回、スタートに戻ります。

「今回やってみた表現の中で、やりがいを感じたり、
 好きだなって思った所はどこだった? 
 それとももっと深めたいのは
 別のことだった?」

どこかへ行ってしまったと思っていた
『好き』へのきっかけが、
形となって顕現して、
自分にフィードバックしてくれる。


自分の中にあった、
自分でも気付かなかった「何か」を
形にして取り出し、じっくりと
眺めてみる…


それが表現というものです。


こうして人は、もう一度、
自分自身に出会うわけです。
ほんの少し何かが深まった形で…。





「自分との、長い対話を経て、
 より深く自己一致を行っていく」

実はこれは、自分の本質を深める、
「最短コース」なのかもしれませんね。




それにしても人間は、
なぜ一体、こんなに遠回りをして、
まどろっこしい事をするんでしょう?

ラクで楽しい「表出」的な表現だけじゃ、
なぜ、ダメなんでしょうか?


もちろん、
「表出」の表現だけでも十分、
社会的認知や報酬を得られる人はいます。
でもたぶん、そんな人であっても、
…いや、そんな人であればあるほど、
どうしてももっと複雑なものに
取り組みたくなるのが人間というもの
なんじゃないでしょうか。


このことをわかりやすく考えるため、
「お笑い芸人さん」の例で
言いかえてみましょう。

たとえば、テレビのバラエティー番組で
ある芸人さんが、ひな壇にゲストとして座って、
番組の賑やかし的存在をやっていたとします。

そうすると、
その芸人さんの「本質」が少なからず、
「表出」されてきて、
そこに共感して、好きになる人も
出てくるでしょう。

好きな人が増えてくれば、
視聴率も上がります。


でも、いつまたってもそれだけだと、
だんだん芸人さんは、
自分がつらくなってきます。

必ず本分の「漫才」だったり、
自分の内的なものに合致した部分で
人生を深めていかないと、
自分が自分に、納得できなくなってしまう時が
来るのです。


そこにフタをして誤摩化していると、
その内的不一致感は、オーラを曇らせ、
心やからだの具合を悪くさせるだけでなく、
最悪の場合はテレビを通して、
そのまま、見ている人にも伝わってしまいます。

その人を見るたび、
なんだかぼやっとした気持ちになって、
がっかりして、
ついには世界までがまるごとマイナスの共感へと
引っ張られてしまう。
これはとても不幸なことです。


もっとも、お笑い芸人さんというのは
たいていは人一倍、
敏感な感性を持っている方たちなので
「おかしいな」と思い始めた辺りで
上手に転身をはかったり、
何かを見つけて表現の幅を広げていきます。

監督になったり、
俳優になったり、
司会者になったり、
絵描きさんになったりね。


お笑い芸人に、
どうしてあんなに見事に転身できる人が多いのか
と言えば、それだけ「お笑い」という表現は
人間の深いところに関わっているからだと
思います。


一見、バカに見えるように動けるというのは、
それだけすごいということなんでしょうね。


いずれにしても人間は、
最終的にはどうしても自分の井戸を
掘らずにはいられないのです。

それは職業的にプロになるというよりは、
「自分のプロになる」ということに
直結しているんじゃないかと思います。








まさに今
伸びていこうとしている葉っぱの先の、
先のほうまで、
丁寧に「生きる力」を届かせたい…


植物と同じように、人間も
そんな生き物なのでしょう。

浅い所でクルクルと回遊するのじゃなく、
できる限り、深い所まで行きたい、
全身全霊の自分になりたいのです。


深い内省によってなされた「表現」は
ただちに「表出」(本質)のほうにも影響を及ぼして、
内的な自分と一致している感覚が
一段と進んでいきます。
仕事も人生も、こうして
一緒に深まっていくのです。


また人間は、
誰かが、その人自身である「表現」を
しているところを見るのが、
とても好きです。


なぜならそれは、
見た瞬間に元気が出て、
ひょっとしたら、自分も
がんばれるかもしれない!
と思わせてくれる、
「ものすごい力」を持っているからです。


たとえば、
ダルビッシュも、イチローも、
大リーグの選手ですが、
それぞれがそれぞれの強さ、弱さを自覚し、
丁寧に吟味したうえで
良さを発揮しているから
輝いて見えるわけです。


彼らは、自分の長所はもちろん、
欠点を知り抜くことで、
それを武器にして、自分ならではの
人生、仕事を表現しています。


その姿を見れば、
最初から天才なんて人はこの世にはいなくて、
自分を「情けない」「悔しい」
「もっと強くなりたいのに…」
と思った部分をきっかけにして
内省を深めていったのかがよくわかります。



誰かが、内的に自己一致して表現して、
それを自分の手の中だけにとどめずに
世界に向かって発信していくということは、
だから大切なんですね。

それはきっと、世界のどこかにいる誰かにも
明るい光をもたらすから。


社会という場では、どうしても、
経済的なものや、時間的なもの、
立場やしがらみなどが優先されるので、
自分では「もっと深めたい」と
思っていることがあっても、
さまざまな諸事情により
その対話が途中で「遮断」されてしまうことも
多いと思います。


…って書いてしまうと、
いかにも「社会のせい」と思われるかもしれませんが、
実際には、そうではなくて、
個人が自ら望んでそうなっている場合のほうが
圧倒的に多いのですね。



日本は、今、
「飢え」などからはとうに解き放たれた
恵まれた国になっているので、
本当はみんなもっと自由に、
「自己一致」に向かっていって
いいのではないでしょうか。


「とても簡単にはできそうにない。
 でもこのことだけは、時間かかっても
 探求したい。
 全身全霊で打ち込みたい」
と思うことをひとつでもいいから見つけて、
それを通して、世界や人と
つながってみようとすること。

いつも受け身だけで時間を過ごすんじゃなく、
テレビやネットなど
怠惰を誘うあらゆるユーワクを乗り越え、
内省の時間を増やして得たものを
世界に向かって表現していくこと。



それさえ大事にしていれば、
「経済」も「時間的制約」も
「しがらみ」さえも、逆に
人生や世界とのつながりを深めてくれるきっかけに
十分なりうると思うのです。



JUGEMテーマ:創作活動

こちらの本でも、深い内的ダイビングが
可能ですヨ♪
 ↓
最初のロングバージョンを拝読し
「うっわ、すごっ!」と思い、
止むにやまれず「表出」的に
ご連絡をしてしまいました、(笑)
お騒がせをしまして、失礼しました〜。(^^;)

シェイプアップした第二稿もいいですね〜っ。

興味深い論点をたくさん含むこの文章を咀嚼して、
自分の中にあるあれやこれやと対話しつつ
【反芻的表現】のアウトプットに至るには
ちょっと時間がかかりそうなので、
まずはウォーミングアップということで、
「あっ」と思った論点に対して
【表出的表現】を試みてみようと思います。
おつき合いをいただけば幸いです。

>人間は、誰もが
>自分を「表現」しながら生きています。

そうなんですよね、
【ただ在る】んじゃなく絶えず【表現しつつ在る】。
他と関わることが、
己が在ることに常に織り込まれているところが
人間をやっていて(笑)一番厄介な点であり、
またその醍醐味でもあると思います。

>この「表現」には、大きく分けて
>二つの種類があります。

興味深い区分です、ほんとに。
この区分の助けを借りて、
先々で何か大きなものが見えてくる予感がします。

>自分が自分であることに、
>瞬間的に一致できている幸せが
>そこにあります。

面白いっ!
はっとさせられました。
後々、私の中で別な論点と
結びついていく箇所なのかもしれません。

>ただ、「表出」的な表現には、
>その人のそのときの「今」が如実に
>描写されることによって、
>とても刹那的で荒くはあるのだけど、
>誰にでも共感しやすい、
>日々の人生のおかしみと、
>それを瞬時に描きつづった感じが
>現れ出てきます。
>そこがすごく面白くて、味わい深いと
>感じるわけです。

おっしゃる通りですよね。
確かにこういう表現には
表現者のハラの内(「本質」)が素直に出ていて、
私も大好きです。
でもあれですよね、
何でそれが面白かったり
味わい深かったりするんでしょう?
この部分、もうちょっと考えてみたいなあと思っています。

>行程がどうしても長くて
>複雑になるので、
>たとえそれが最初は「好き」で始めたことで
>あっても、途中から、
>その「好き」という気持ちは、いったん、
>見えなくなるまで遠のいてゆきます。
・・・・・・
>ある本によると、ほとんどのアーティストが
>同じ過程を経過していくとのことでした。
>作品作りとは、まさにその繰り返しなのだと…。

そういうものなんですね〜。
勉強になりました、ありがとうございますっ。
‘口の「好き」を経由して表現に集中するステージと
△修譴一段落したところでやってくる弛緩するステージと、
再び集中に向かって緊張していくステージと。
【反芻的表現】では、
これら3つのステージを区分できますが、
自分の底を深掘りする表現って、
日常的な意識からはみ出す
無意識的な力もたくさん関わってきますから、
ステージ間の移動は、
ほとんど意識的にコントロール
できないんじゃないでしょうか。
ちなみにあるインタビューの中で、
村上春樹さんは
「長編を書いている時に自分は性格が悪くなる」
とおっしゃっています。
村上さん、きっと執筆中は、
長い間わけの分からんものに
小突き回され続けるような状態になるんでしょう。
ちょっとぐらい性格が悪くなっても
仕方がないと思います。(笑)

>「儀式」のような瞬間が必要になります。

これも前述の村上春樹さんが
おっしゃっていることですが、
表現の「呪術性」ということを連想しました。
たとえば早朝、毎日決まった時間に起床し、
決まった時間にデスクにつき、、、
といった具合に、
まさに「儀式」的な行動の「型」を設定することで、
無意識的なものに
アクセスするための回路が整うんだと。
深い表現には、
往々にしてそういう呪術的な手順が
伴うというわけです。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、
主人公の男が「シャッフリング」と呼ばれる操作を
行うシーンがありますけれども、
ちょうどあんなイメージですね。
【反芻的表現】の3つのステージの移動に関わる操作で、
はっきりと意識的に整えられるのは
この「儀式」(手順)の部分が
ほとんどなのかもしれません。

・・・・・・ということで、今回も下に続きます。(笑;)
鹿 | 2012/04/20 12:16
>こうして人は、もう一度、
>自分自身に出会うわけです。
>ほんの少し何かが深まった形で…。

ここに至るくだりを拝読しながら、
「私」って既に一つの「人間関係」なんだなあと
しみじみ思いました。
「私」とは「私と私の関係」なんだなと。
だからこそ、

>「自分との、長い対話を経て、
>より深く自己一致を行っていく」

この営みは
個人的な趣味や好みといった次元を超えて、
生きている限り避けては通れない
必須の課題になるんでしょう。

【私を生きる】私と【私を理解する】私。

時に無言であっても、
【2人の私】の対話は命ある限り自動的に続くし、
この対話をおざなりにすると、
ろくなことにならないような気がします。

>「お笑い」という表現は
>人間の深いところに関わっている

このお笑い芸人さんのくだり、
とても分かりやすく楽しかったです。^o^
個人的に思うんですが、
「笑い」を作れる人って、
人一倍「笑えないもの」を理解している人
なんじゃないでしょうか。

常識や権威や習慣や
「当たり前なもの全般」のことを。

笑いは、基準としての「当たり前」から
上手に逸脱することで生まれます。

逸脱のセンスは、
「当たり前」に埋没することなく、
そのちょっと脇や下や上から
「当たり前」を観察することで磨かれることでしょう。

お笑い芸人さんたちの人間理解が深いのは、
多分こんなことを
日常的にやっているからではないでしょうか。

>それは職業的にプロになるというよりは、
>「自分のプロになる」ということに
>直結しているんじゃないかと思います。
・・・・・・
>浅い所でクルクルと回遊するのじゃなく、
>できる限り、深い所まで行きたい、
>全身全霊の自分になりたいのです。

すごくわかります。

>また人間は、
>誰かが、その人自身である「表現」を
>しているところを見るのが、
>とても好きです。

こういう表現に触れると、元気が出ます、ほんとに。
表現されている内容が
ネガティブなものであっても、
たとえば「オレって無茶苦茶チャライよなあ」とか
「どうしようもないヘタレだよなあ」とかいうことであっても、
元気が出るんですよ。(笑)
不思議です、ううむ、何でなんだろう。
引き続きじわーっと考えてみます。(^^;)

>誰かが、内的に自己一致して表現して、
>それを自分の手の中だけにとどめずに
>世界に向かって発信していくということは、
>だから大切なんですね。

>それはきっと、世界のどこかにいる誰かにも
>明るい光をもたらすから。

疑いようのない真実ですね、これは。

>「とても簡単にはできそうにない。
> でもこのことだけは、時間かかっても
> 探求したい。
> 全身全霊で打ち込みたい」
>と思うことをひとつでもいいから見つけて、
>それを通して、世界や人と
>つながってみようとすること。

ジンときました、はい。
これをせずには死んでも死に切れません。

「自分のプロ」になるための課題を
誰でも一つは持っているはずです。

そこから目を逸らしたらいかんです。

>それさえ大事にしていれば、
>「経済」も「時間的制約」も
>「しがらみ」さえも、逆に
>人生や世界とのつながりを深めてくれるきっかけに
>十分なりうると思うのです。

内的な課題への取り組みが前に進まないのを、
外にあるものごとや環境のせいにしたらいかんですよね。
反対に、課題への取り組みを
促進するものも妨害するものも
全部自分の中にあると腑に落ちた瞬間から、
外的な障害に見えていたものも
味方になってくれるんじゃないでしょうか。
そんなことを思いました。



以上、徒然なるままで恐縮ですが、
差し当たっての感想でございました〜。

では、では。(^o^;)
鹿 | 2012/04/20 12:17
はじめまして。ツイートで共有させていただきました(^o^)
hn_Focusing | 2012/04/21 11:21
hn_Focusingさま

遠いところから、リンクをいただきまして、
ありがとうございました!
ファーカシング…は、つい最近知った言葉
なのですが、自分にも人にもつながる大事な鍵を
握っているように感じています。

今後ともどうぞよろしくお願いします!
さくらみゆき | 2012/04/22 22:20
鹿さま
>止むにやまれず「表出」的に
>ご連絡をしてしまいました、(笑)

いやいや、ほんとにありがたいことでした。
先週、かよちんとじゃぱんと飲み会をしたときに
しみじみ友達ってありがたいな、ステキだなって
思ったんですが、それと全く同じように、
しみじみ、鹿ぴーさんの優しさ、ありがたさを
感じてました。ありがとうございます。

>自分の底を深掘りする表現って、
>無意識的な力もたくさん関わってきますから、
>ほとんど意識的にコントロールできない

なるほどね〜…なるほど…。
あれは「無意識的な力」だったのか。
道理でわけがわからなくなるはずです。
制作していると、
「ふだん、人の言葉に過剰反応している情けない自分」
とかが恐ろしいほど簡単にあぶり出されてきて、
それを見たくない衝動ゆえに筆が止まったりとか、
でも、そこを掘っても自分ではどうしていいか
結局わからなくて、
とりあえず、ねじ伏せて進む方法を模索したりとか、
なんかもう、いやになっちゃうくらい、自分に
出会ってしまいます…。
うまくいっているときは、すごぉくノリノリで
楽しいんですけどね。

>村上春樹さんは
>「長編を書いている時に自分は性格が悪くなる」
>とおっしゃっています。

わかるなあ〜…
ノっている時は、あまりにも世界との合体感が強いので
誰にも邪魔されたくないし、
うまくいっていない時は、それこそ
「お願いだから、この微妙なつながりを
 断ち切るようなことはやめてくれえ!」と
殻を閉ざして閉じこもりたくなりますし…。
初心者の私でさえこうなのに、
これをあんなにがっぷり四つで、
しかも小説という形で表現されておられる村上さんは、
さぞかし大変でしょうね。

>表現の「呪術性」ということを連想しました。
>まさに「儀式」的な行動の「型」を設定することで、
>無意識的なものに
>アクセスするための回路が整うんだと。

イチローも、S・キングも
そういえば、されてますね。
集中に向かうためのおかしな儀式を…。

そうそう、先日行った「日比野克彦」さんの
「人はなぜ絵をかくのか?」という講演会でも
日比野さんはご自分に絵を描くよう、
「白いまじないをかける」とおっしゃっていました。
まさに「呪術」。。。
この「白いまじない」とは、
「白い紙を目の前に出すこと」なんだそうですが、
あまりにも面白く感じたので、自分を押さえきれず、
質疑応答の時間に、さらに突っ込んで質問してしまいました。
日比野さんは「いいパスをいただきました」とおっしゃった
ものの、簡単に言葉で説明はされずに、長い時間かけて
ご自分のアートワークをスライドで共有してくださいました。
すごく良かったです。
こういうのって、つながるときは、
こわいほどつながりますね。

それから、このことは前にもお話したかもしれませんが
私のお茶の「若」先生は、僧坊で修行された方なんですが
「同じ時間に起きて、同じ時間に瞑想してそうじして…
 ってことを毎日繰り返していくと、
 ほんの少しの感情のさざ波や浮き沈みが
 自分でも把握できるようになってくるんだ」
とおっしゃっていました。

やっぱり、そのあたりに鍵があるのかしら…。
もっとも女の作家さんは、あんまりこういうことも
おっしゃらないんですけどもね。(強いのかな…?笑)
とりあえず私も、自分の儀式をもっと模索して
深めてみたいです。

>「私」って既に一つの「人間関係」
おおっ! 本当にそうですね。

>人一倍「笑えないもの」を理解している人
>常識や権威や習慣や
>「当たり前なもの全般」のことを
>そのちょっと脇や下や上から観察

なるほどねえ。
有吉くん、松本さん、たけしさんの顔が浮かんできました。
そうか、常識や権威や習慣は、ありのまんまじゃ
笑えませんものね。
もともと「薄っ皮」一枚で、常にさらされているような人たちだし…
そりゃあ痛いし、ますます敏感にもなりますよね。
ここ、もっと深く考えてみたい…

>促進するものも妨害するものも
>全部自分の中にあると腑に落ちた瞬間から、
>外的な障害に見えていたものも
>味方になってくれるんじゃないでしょうか。

ああ、そう考えると、世界ってほんと、
自分で作っているんですねえ。ひとつ残らず。
自分で世界を分解し、組み立て直していく作業。。。
…ふ〜っ。

それではまた引き続き、元気に旅を続けてまいりましょうか(^^)
鹿ぴーさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします♪
さくらみゆき | 2012/04/22 23:30
COMMENT









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